プロフィール 1
🎹 幼少期〜小学時代
広島県三次市に生まれました。音楽好きの母が、「娘にも音楽の素晴らしさを感じる人になって欲しい」と願い、6歳から習い始めました。
高校の音楽の先生のもとで習い始め、レッスンの記憶は薄くとも、ピアノを弾くことは純粋に楽しかったのだと思います。
田舎という事もあって周りにはピアノを習う人も珍しく、目立つ存在だったがゆえに、辛いいじめを経験した時代でもありました。
🎹 中学時代
母の熱心なサポートのもと、さまざまなジャンルのレコードを聴き音楽に親しみました。不思議とピアノ曲よりもベートーヴェンの「田園」が心に残っており、音楽への愛着はどんどん深まっていきました。
だんだん音楽が好きになり、ピアノを弾くこともますます楽しくなっていきました。
300名足らずの小さな中学では、数学の先生が音楽を兼任されていたため、授業はほぼ伴奏係でした。
その代わり、数学の先生らしい明快な楽典の授業、特に「調性判断の方法」は、今も生徒さんへの指導に活かしています。
両親が、ピアノを弾いている時が一番楽しそうにしている私に気づき、3年生の時、音楽大学の先生のもとへ連れて行ってくれましたが、「音楽の道は難しい、進度が遅れている」とはっきり言われ、一度は断念を決意しました。
しかし日々元気を失っていく私を見た母が担任に相談し、「高校に入ったら新しい先生を探そう」という希望の道が開けました。
🎹 高校時代
地元の進学校に入学と同時に、新しいピアノの先生の所に片道2時間30分かけて毎週日曜日に通い、ピアノとソルフェージュのレッスンをはしごしました。
少しのミスも許されないとても厳しい指導と定期試験との両立は過酷で「数学が出来ても音大には入れません」という言葉が今も耳に残る、人生で最も辛い3年間でした。
高校2年からは国立(くにたち)音楽大学の夏期・冬期講習に参加。
3年生の国立音楽大学の冬期講習で「現状では合格が難しい」と言われ、急遽志望校を東京音楽大学に変更。
受験直前の1月に志望校を変えたため、ピアノ科の課題曲が合わず、教育科での受験となりました。
🎹 大学時代
東京音楽大学 教育音楽科に合格。ピアノを専門的に学びたいという想いは強く、入学と同時にピアノ科への転科を目指し、1年生の時はピアノ科と教育音楽科の2つの科の試験を受けました。
2年生で念願のピアノ科へ転科しました。
著名な教授陣も多く、作曲家、編曲家、コラムニストの三枝成彰先生に和声法を「炎のコバケン」の愛称で親しまれる日本を代表する指揮者の小林研二郎先生に指揮法を学び、音楽の世界は大きく広がりました。
友人との音楽談義も尽きることなく、講義の後は体中が音楽で満たされるような日々でした。
ピアノ科のレッスンは大変厳しく、在学中は日々練習に明け暮れていました。
一方、ピアノの師匠には恵まれず、それが後に反面教師になりました。
教育実習を経て、中学、高校の音楽教師は音楽以外の仕事が多く、音楽に専念できないと感じ、音楽を深く探求できるヤマハのシステム講師の道を選びました。
🎹 ヤマハのシステム講師時代
両親との「卒業したら広島に帰ってくる」という約束通り、広島に戻りヤマハ広島店の特約店に勤務。ピアノブームの時代、週6日・多い時で、生徒数140名ほどを担当し、とにかく夢中で働きました。
音大では「演奏すること」は学べても「教えること」は学べなかったので、指導法の講座に行き、書籍を片っ端から読み学びました。
暗中模索の日々を経て、次第に教えることの喜びを感じ、生徒さんの上達と保護者様からの信頼が積み重なっていきました。
「天職かもしれない」と感じたのは、教え始めてそれほど経っていない頃だったように記憶しています。
それまでピアノの先生に恵まれなかった経験から、「生徒さんに寄り添った温かい先生になろう」と心に決め、今もその想いは変わりません。
楽器店主催の大規模な発表会が年に1度開催されており、その発表会で「テーマを決めてやりましょう」と提案し、「動物」をテーマに設定し、サン=サーンス≪動物の謝肉祭〜フィナーレ≫に決定。ワクワクしながらオーケストラの曲を幼児教室用の合奏曲にアレンジしました。
オーケストラ編成と器楽合奏の楽器は違うので、出てくる音をイメージしながら、生徒さんが喜ぶお顔を思い浮かべながら編曲しました。
発表会当日、演奏し始めると「ワーッ!」と歓声があがりました。全員が一丸となった約50名の合奏は壮大な演奏となり、大きな反響をいただきました。
その楽器店のエリアの中で、音楽熱の高い地域の教室を担当させていただいたおかげだと感謝しています。
この会場の生徒さんから結婚式には、祝電の中に「動物の謝肉祭は楽しかった」の言葉はとてもうれしく忘れられない思い出です。
3年目には講師チーフも任されました。
🎹 結婚・出産・教室開設
卒業3年後に結婚。「女性は、家を守るもの。仕事をするなんてとんでもない」」という親戚一同の声に抗いながら、「ピアノは私の生きがい」と懇願し、週1回のヤマハ講師と実家での個人レッスンを続けました。
夫は、私の想いを受け入れ、その後もずっと支え続けてくれました。
出産を機にヤマハを退職し、自宅で「しまおかピアノ教室」を開設。産前産後2ヶ月の休業を経て復帰しました。
ベビーシッター、お姑さん、実家の母に助けてもらいながら、レッスンと指導法の学びを続けました。
あちこちから情報を集め学ぶうちアイデアが湧き、それを実践する中で、生徒さんの上達と手応えを感じ、仕事はどんどん楽しくなっていきました。
私のレッスンは、レッスン時に家での練習の仕方を細かく実践し、練習の仕方を徹底させ、そして生徒さんと良くお喋りします。
「寄り添う先生、温かい先生になる」という強い思いがそうさせたようです
情熱を持ち続けられたのは、生徒さんの成長と保護者様からの信頼があったからこそだと、今も心から感じています。
レッスンへの熱が入りすぎて時間をオーバーしてしまうのが私の悪い癖で、「こうじ君(息子)のお母さんは、先生しかいないのだから、もう少し仕事をセーブしてください」と保護者様からアドバイスいただいたこともありました。
それでも若さと自負から、その言葉に耳を貸しませんでした。
息子との関わる時間が少なく息子が小学4年生の時に「生徒と僕、どっちが大事?」と言われた言葉は、今も心に深く残っています。申し訳なかったという気持ちと共に、それでもレッスンに邁進した日々でした。
🎹 生徒さんたちとの歩み
生徒さんたちの成長は目覚ましく、最初は腕試しのつもりで参加したコンクールが、いつしか好成績を重ねる舞台へと変わっていきました。
コンクールで生徒さんの演奏が評価されることで、自分の学びも多くありました。
中でも強く印象に残っているのは、著名なピアニストが一人で審査し、演奏後に、観客の前で1人づつ講評するという形式のコンクールです。
指導した先生にとって、その時間は針の筵でした。
5人の生徒さんが、言葉は違えど同じ内容の講評を受けたとき、指導者として穴があったら入りたい気持ちでした。
一言で言えば「躍動感が欲しい」
その言葉を真摯に受け取め、原因を探り、問題点を克服していくと、以前より良い結果が生まれるようになりました。
弱点をあからさまに突き付けられる辛さの中にも、素直に受け入れることで私自身も成長できたと感じています。
「しまおかピアノ教室なら受賞できる」という口コミが広がり、生徒数も増えていきました。
「目標に向かって皆が励む環境こそ、何にも勝る力がある」とあの頃からそう信じております。
音楽の喜びは、一人の演奏するだけには留まりません。アンサンブルには、ハーモニーの美しさ、スケール感、音楽の深み、そしてお友達と心を一つにする連帯感があります。
生徒さん達は、連弾や2台のピアノのアンサンブルを心から楽しみ、ひとりでは決して味わえない音楽の世界を体験してきました。
そのような想いの中で、コンツェルトこそが、生徒さん達を音楽的に大きく成長させ、音楽の深さを体感させてくれると信じ、今から37年前、3名のピアノの先生方と力を合わせて、広島交響楽団との共演を実現しました。
平和公園内の1,500人収容の「フェニックスホール」で、ショパンのコンツェルト1番とモーツァルトのコンツェルト23番を披露しました。
本番前に緊張で泣き続けた生徒、水を得た魚のように輝いた生徒、終演後は関わったすべての人が涙し、翌朝になっても涙が止まらなかったほどの感動でした。あの日の記憶は、私の心の大切な財産です。
あの感動が忘れられず、その後もコンツェルトの企画を重ね、数多くの生徒さんがオーケストラとの共演を体験しました。
🎹 声楽・ウィーン音楽大学夏季セミナー
息子が幼稚園に入り少し時間の余裕が出来た頃、「ピアノの先生も歌が歌えると便利」「音楽は、歌う事から始まる」と思い29歳から声楽の個人レッスンをスタートしました。
先生から「上手い」と言っていただき、褒められる喜びがエネルギーとなって、楽しみながら歌い続けました。
42歳の時、長年の夢だった音楽の発祥の地へー1ヶ月間、ウィーン音楽大学の夏季セミナーに単身参加し、ピアノ・声楽・ドイツ語を受講しました。
憧れのヨーロッパへの初上陸、空港に降り立った瞬間から、見るもの聞くもの全てが感動の連続でした。音楽が街中に溢れるウィーンに身を置いていることが、夢のように感じられた1ヶ月でした。
休日にはイタリアやザルツブルクへ足を延ばし、毎晩コンサートへ通う音楽三昧の日々。
ピアノと声楽の3人のレッスンを受けましたが、「自信を持って演奏すること」を徹底的にたたき込まれ、恥ずかしそうな態度をとることはブーイングの対象でした。
コンサートの余韻に浸りながら、夜な夜な若い参加者たちと語り合った音楽談義も、かけがえのない思い出です。
その体験が忘れられず、その後7年間、毎年ヨーロッパを訪れました。各地でレッスンを受け、パリでは、音楽分析を受講するなど本場の音楽に全身で触れ続けた日々は、私の音楽観を大きく育ててくれました。
「あなたの歌は素人、もっと本気で取り組むべき」という友人の言葉をきっかけに、地元のエリザベト音楽大学大学院への入学を決意しました。
ピアノ科出身のため3度の受験を経てようやく入学が認められました。
ピアノの先生をしながらの大学院生活は、楽しくもあり厳しくもある、充実の2年間でした。オペラの経験もないところから猛勉強し、また全身を音楽で満たした時間でした。
周りの同級生は、息子と同い年。若い人のエネルギーもたくさんいただきました。